周司あきらさんと高井ゆと里さんの『トランスジェンダー入門』(2023, 集英社)について、少し気になることがあったので、あまり形式ばらないかたちで感想を残したいと思います。
※2023/07/22: [追記]『すばる』2023年8月号に掲載された高井ゆと里さんの「トランスジェンダーの定義を知りたいあなたへ」および読者らによる『入門』の語られ方について、少し追加しました。目次を参照ください。
簡単なまとめ
「定義」、「全体像がわかる」などの言葉は、トランスジェンダーやノンバイナリーの一部を「トランスジェンダーでない」と宣言してしまう効果がある。また、「入門」という枠組みによって、著者らは、解説したり定義したり全体像を提示したりできる権威のある存在として規定され、ほかのトランスジェンダーの人たちは一方的にこれらの行為のなされる対象にされてしまう。さらに、著者らもまた各々の立ち位置からのみしか考え、理解し、記述できないにも関わらず、そのことが註としてすら明示されないまま「トランスジェンダーの人は~」が繰り返される当書は、前述の「権威」の問題もあり、一層説明の中にない人たちや立場を排除し、本来は多様で動的なトランスジェンダーの人たちを画一的な経験や思想を持つ集団と規定してしまっている。著者らの知識やコミュニティへの貢献は認め、最大限の敬意と尊敬を払い続けたうえで、このような枠組み設定では、トランスジェンダーの人たちを一部のトランスジェンダーの方たちが「規定」し「代弁」しているだけになってしまっている。
スタンドポイント
まず、書き始める前に、自分がどういった立ち位置から『入門』を読み、この文章を書いているのか明記しておきます。これらのことが自身のおかれている環境や文脈から切り離せないという認識のもとで、必要だと思われる範囲で脚注のつもりで書いています。読み飛ばしてくださってもかまいません。
自分は、ノンバイナリーです。より正確には、「女性」とも「男性」ともいえない「性別」と、「性別」がない状態の間を「流動」していると理解しています。さらに、この理解自体も暫定的なものであると考えており、これを積極的な意味で受け入れ、「クエスチョニング」というラベルを使うこともあります。このことは基本的にオープンにしています。また、日常的に英語でやりとりすることが多い環境にあるのですが、その場合もわりとオープンに、代名詞はthey/themであると伝えています(メールの署名でも、不都合がなさそうな場合は書いています)。代名詞は必ずしも性別と合致するわけではありませんが、they/themであると宣言することを通じて、相手が自分をノンバイナリーであると推測するだろうことは予想しています。
割り当てられた性別として交流することや身体的特徴の一部に対して、違和/不合はありますが、経済的、社会的な理由や、健康上の懸念などから、また、自分の不合/違和を解消するためには、それが可能だとしても、侵襲性の高い施術が必要であることもあり、HRTを含む一切の医学的移行はしていません。一定に自分自身の在り方と付き合えているところから、少なくとも今はあまりそれを求めてもいません。そのこともあって、改名をふくめた制度上の移行は基本的に困難なのですが、あまりそれに重きを置いていないため気にしていません。ただ、本名はかなりつよくバイナリーなジェンダーを示唆するため、日常的にはその部分を省いたり、あだ名を用いたりして生活しています。
「トランスジェンダー」ということばについては、自分をシスジェンダーであるとは認識していない一方で、自分をトランスであるとも完全には理解してません。『入門』のp.22で挙げられている一つ目の例と近いかもしれません。ですが、『トランスジェンダー入門』の提示する「定義」に基づけばたしかに自分はトランスジェンダーの一部であるし、日常的に経験させられる抑圧や差別も重なるところが非常に大きく、さらに当書はトランスジェンダーだけでなく日本のノンバイナリーがおかれている環境についても詳細な記述があるため、以降は『入門』のいうところの「(広義の)トランスジェンダー当事者」の一人であるという認識のもと記述します。
「入門」されるトランスジェンダー
わたしの撫でた猫は、常に無数の属性の総体としての「わたし」が撫でた猫である、それは、この邪悪な「秩序」の中で経験される「一撫で」である。わたしのもつ属性同士が絡み合うなかで、その瞬間いる社会のすべての人のすべての属性と緊張し合うなかで経験された「一撫で」である。…わたしたちはそうやって「一撫で」ごとに世界を経験する。わたしが直接知りうるのは、あくまでわたしが撫で続けることを通じて知った「世界」でしかない。
「「2023年2月のわたしのアナキズム」宣言」in 『a.n.: a ZINE by anarchist_neko』
タイトルに感じる違和感
『トランスジェンダー入門』というタイトルが高井さんのTwitterにて公開されたのは、2023年の1月です。少なくとも自分がこの本が出ることを知ったのは、このツイートを通じてでした。
個人的な観察に過ぎないのですが、当書の発表を好意的に受け止める当事者たちも多く見かけた一方、当時からタイトルに違和感や懸念をおぼえていた人も少なからずおり、自分もその一人でした。その批判は、主に「入門」という表現に対して集中していました。
『広辞苑(第六版)』は、「入門」ということばを次のように説明しています:
①門内に入ること。
②師の門に入って弟子となること。
③初学者の手引きとして書かれた解説書。「文学―」
ここでもっとも関係するのは③の説明でしょう。『広辞苑』の説明を一旦受け入れるのならば、このとき、『○○入門』は、「読者」を解説を受ける初学者として想定した本になります。ある記述が「解説」となるには、それを読む/聞く側が、記述する側が「解説できる立場」にあることを受け入れている(少なくとも記述する側は、そういう立場に自分があることを相手が受け入れていると考えている)ことが必須です。なので、『○○入門』は、「著者(ら)」を、○○について解説しうる権威のある存在として配置してしまいます。さらに、これは「○○」を解説の対象にしますが、このとき、これが解説しうる対象であることも前提となっています。
『トランスジェンダー入門』というタイトルにこれを当てはめると、このタイトルは、全員を次のように位置づけます:
読者:「初学者」
著者ら:「トランスジェンダー」について読者に解説しうる権威をもった存在
「トランスジェンダー(の人)」:読者に向けて一方的に解説され(う)る存在、研究や記述の対象
(一部のトランスヘイターが「トランスジェンダーになるための解説書」であるかのような揶揄をしていましたが、それはさすがに悪意を持った解釈だと思います)
『女性入門』の例
この違和感は、ほかの「○○入門」を考えると伝わるでしょうか。「トランスジェンダー」はアイデンティティではなくジェンダー・モダリティであるため不正確な喩えなのですが、『ビジネスマンのための女性入門』(諸井薫, 藤堂志津子, 安部 譲二. 1995. プレジデント社)という題名の書籍を例にとってみましょう。このとき、
読者:「女性」について学ぶ者(「ビジネスマン」)
著者ら:「女性」について読者に解説しうる権威をもった存在
「女性」:読者に向けて一方的に解説され(う)る存在
では、どのような人がどのような目的でこれを書き、どのような人がどのような目的でこれを読むように感じられますか?「女性」の自主性や多様性は、どの程度意識されているように感じられますか?この本の帯が、おそらくここで問題にしたいことを反映しているように思います:
「性」の悩みは男だけのものではない。成田離婚、妻の浮気、熟年離婚……男が危機から逃れるための「最新のオンナ学」
予想されるいくつかの反論にたいして
もちろん、『トランスジェンダー入門』というタイトルを、トランス当事者であると公開してる著者たちがあえて付けたと解釈することは可能だと思います。しかし、知っている限りそのような主張は公式にはなされていませんし、少なくとも自分は出版された『トランスジェンダー入門』の本文からそれを読み取るはできませんでした。また、仮にこのタイトルが意図的だったとしても、お二人がこれまでにしてきたコミュニティへの貢献を一切軽んじるつもりはないうえで、トランスジェンダーの人たちを一方的にお二人に解説される立場においてしまうことは変わりません。トランスの人たちは、現実に存在し、現実に生きる、主体性や自律性のある存在です。ただ記述され、規定され、議論されるための存在ではありません。『トランスジェンダー入門』にも繰り返し書かれている通り、実際のトランスの人たちは多様であり、多様な意思を持ち、多様な経験をしています。もし、シスジェンダーの立場から不当に語られ続けきたことに問題があったのならば、たった二人のトランス当事者がトランスジェンダー全体について語る権威があるとみなすこともまた、問題ではないでしょうか。
あるいは、「『入門』はトランスジェンダー当事者でない人が読むことを想定している」と反論されるかもしれません。確かにそう考えれば、著者らが読者らへ解説する権威のあることも分かりますし、現状のトランス当事者らに対する誤解や誤情報、無理解を受ければ、トランス当事者らが解説される対象として措定されるのも、あるいはあまり問題がないのかもしれません。ですが、実際には、「トランスジェンダーについて知りたい当事者」(そで)にも向けられていることが明記されており、やはり指摘してきた問題は残ります。
ここまでのまとめ
ここまで、タイトルにある「入門」ということばに着目しながら、それが著者(ら)やトランス当事者をどういう立場においてしまうかについて、批判的に論じてきました。この問題は、「定義」や「全体像」ということばの使われ方についても繰り返されています。
「定義」され、「全体像」がつかまれるトランスジェンダー
「定義」と「説明」
『トランスジェンダー入門』には、トランスジェンダーの「一般的な定義」があげられています:「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」(14)。数ページ先には、次のように言い換えられています:「生まれたときに「あなたは女性だよ/男性だよ」と割り当てを受けたその性別集団の一員として、自分自身を安定的に理解できなかった人たち」(18)。次の段落ではこれらは「説明」と言い換えられており、著者らは「定義」と「説明」をほぼ同じ意味であるとして用いているように読めます。このような言い換えはp.24やp.26などにもあります。ですが、「定義」と「説明」は、同義語ではありません。
再び『広辞苑(第六版)』を参照すると:
「定義」
(definition)概念の内容を明確に限定すること。すなわち、ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。その概念の属する最も近い類を挙げ、さらに種差を挙げて同類の他の概念から区別して命題化すること。例えば「人間は理性的(種差)動物(類概念)である」。
「説明」
①事柄の内容や意味を、よく分かるようにときあかすこと。「事情を―する」
②[省略]
まず注目したいのは、「定義」が「限定する」行為であるということです。このことは、anarchist_neko (2022) のりんごを用いた例が伝わりやすいでしょうか。
「りんご」の例
まず、暫定的に「りんご」を「あかくてまるくてあまいくだもの」と「説明」してみましょう。
じゃ、このとき、あおりんごは、「りんご」でしょうか。この<説明>では、「りんご」にあおりんごは含まれていないよね。でも、わたしたちの社会(言語共同体)では、あおりんごはりんごであると認識されるし、実際「りんご」という表現をあおりんごを指すためにも用いてる。そこは異論ないでしょ?—じゃ、修正されるのはどっち?当然のように、<説明>の方です。
では、さきほどの「あかくてまるくてあまいくだもの」が「りんご」の「説明」ではなく、「定義」であった場合は、あおりんごはどうなるでしょうか。
[「りんご」の定義]によって、「りんご」は赤色であると、「規定」にせよ「限定」せよされてんだよね。じゃあ、あおりんごは「りんご」ではない。だって、そう決めましょうねって言うのが、<定義>なんだもん。
「定義」するという暴力
「定義」されるものがりんごの場合は、あるいは然したる問題ではないのかもしれません。しかし、すべてのトランスジェンダーを含むそれのできない限り、トランスジェンダーを「定義」することは、一部のトランスジェンダーを排除する行為にほかなりません。もちろん、トランスジェンダーでない人を含んでしまう定義も問題です。
では、すべてのトランスジェンダーを含み、かつトランスジェンダー以外を一切含まない完璧な「定義」など、できるのでしょうか。前提にある、明らかにされうる「内包を構成する本質的属性」などあるのでしょうか。正直、自分は懐疑的です。『入門』の「アンブレラタームとしてのトランスジェンダー」の説明のなかでは「同じ差別」という表現が繰り返されており、それを通じて「共通性」(27)が生まれるとしていますが、各トランス当事者がおかれている社会経済的環境や各々の意思の違いなどを考えれば、ここでいう「同じ」がどのような意味なのかも疑問があります(同じく資本主義的なalloシスヘテロ家父長制の中で差別を受けているとはいえるとは思いますが、その抑圧や暴力がどう実践され経験されるかは多様ですし、この構造に基づく抑圧はトランス当事者以外にもかかるものであると理解しています)。「人」から女性が、「女性」からシスでない女性が、「性別」からノンバイナリーが排除されて語られがちな社会が問題であることをともに受け入れるのであれば、トランスの一部を「トランスジェンダー」から排除し続ける「定義」という行為は、ただ差別の構図を繰り返しているだけにすぎません。
わかられ、つかまれる「全体像」
帯(「トランスジェンダーの全体像がわかる」)にもそで(「「T=トランスジェンダー」について、…その全体像をつかむことのできる」)にもある「全体像」ということばについても、同じ問題があります。だれかに、実際に生きている人たちの在り方の「全体像」をつかむことなど、できるのでしょうか。仮に著者らが「トランスジェンダーの全体像」を把握できていたと想定しても、読者らが「わかる」ことのできなかった様々なあり方は、「トランスジェンダー」に含まれないのでしょうか。もし「全体」が自明でないのならば、どこまでが「全体」なのかを定める権利がどうして一部の人間にあり、どうしてほかのトランスジェンダー当事者らは一方的に決められる側に置かれるのでしょうか。
この気持ち悪さは、以前にも見たことがあります。ヤング(2021)の『ノンバイナリーがわかる本―heでもsheでもない、theyたちのこと』(原題:They/Them/Their: A Guide to Nonbinary and Genderqueer Identities [2019])やデッカー(2019)『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて―誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(原題:The Invisible Orientation: An Introduction to Asexuality [2015])の邦題を見るだけでも、「わかる」や「すべて」といった表現の問題が浮き上がります。ノンバイナリーの一部はsheやheを用いますし、theyを用いないこともあります。アセクシュアルであるからと言って、必ずしも「誰にも性的魅力を感じない」わけではありません。これらのことにもかかわらず、邦題のレベルで「わかる」だとか「すべて」だとか宣言する行為は、そういった多様性を排除し、一部のノンバイナリーやアセクシュアルを周縁化する行為にすぎません(脱線しますが、奇しくもこれらの書籍はともに同じ方が訳されています。タイトルを決定したのがだれかはわかりませんが、特にノンバイナリーやアセクシュアルについての本が日本語圏であまりない状態で、原題にない言葉を付け加えて邦題を問題含みなものにしてしまうのは、やめてほしいです)。
定義が前提とする権威
先ほど、「○○入門」の示唆する「解説」という行為が、権威性を(再)生産/引用/前提とすることを指摘しました。同じ問題が、「定義」や「全体像」についても生じます。「定義」という行為が成立するのは、「定義」しようとしている人に、その意味の範囲を限定する権威や権利があるときのみです。何が「全体像」かを宣言できるのは、「全体」を規定することが許されている(とされる)ひとたちのみです。そして、このとき、すでにそのような権利を奪われ続けているその他のトランス当事者たちは、さらに一方的に「定義」や規定される側と位置されてしまいます。
anarchist_neko (2022)がりんごの例を出しているのは「女性」を「定義」することについて(批判的に)考えるためなのですが、次の箇所は今回の件にも当てはまるでしょう。
たしかに、女性の不完全な説明もまた、一部を周縁化し、それはそれとして大きな問題だよね。でも、女性の不完全な定義は一部を女性でないと宣言してしまう。しかも、わたしたちが今話しているのは、[例えばあるブログの記事という限定した場で「女性」ということばをどう使うかではなく]、日常的な会話に使われていることばや概念としての「女性」の定義なわけだけど、それは、誰が「女性」で、誰がそうでないかに関する「取り決め行為」をしろということ。 どうしてわたしやあなたに、「生物学」の何千年も前から存在する女性を定義する権限があるの(「規範性の問題」をここでは意識しています)?わたしたちに出来ることがあるとするなら、それは、可能な限り誠実な、それでも不完全な、説明でしかない(ただし、あえて「望ましい」定義を作っていくことはできると思う。Haslanger 2000, Jenkins 2016を参照せよ)。
ここまでのまとめ
実際のところ、「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」(14)は伝わりやすいため、私自身もこれを「説明」として使っています。ただ、これだけでは出生時に割り当てられた性別でもあるフリュイドやマルチジェンダーの人たちが排除されてしまうという問題もあるため、補足するように心がけています。それでも、今後、自分の今の説明の仕方に問題があったと理解し、説明を更新することもあるでしょう。こうやって補足や更新を続けることで、説明はより「マシ」なものに変えていけます。そして、トランスジェンダー・コミュニティの在り方も変化し続けるでしょうし、そのたびに、説明もまた変わっていくでしょう。それができるのは、これが「定義」ではないからです。これが「全体像」ではないからです。これが「すべて」でも、これだけで「わかる」わけでもないからです。
たとえば、南極で今水の中に飛び込んだあるペンギンが「富士山」の上にいないことはわかるけれど、実際にどこまでが「富士山」であるかの線を地面に引くのは難しいことです。同じように、多様で、複雑で、動的なコミュニティがどこまでなのかの「線」を引くことは非常に困難です。仮に「神の視点」からなら正確な「線」が引けるのだとしても、誰かに知ることのできるのはその人がその人の周りの環境から影響を受けながら、その立場から経験し解釈したものでしかない以上、「トランスジェンダー」のすべてがある時代のある個人(ら)に把握できるとは思えません。だから、「この文章では○○の定義を以下のように定めます」といった文脈以外で、あるいはconceptual engineeringのような特定のプログラムを除いて、排除と周縁化を前提としない「定義」などできないし、試みるべきではありません。
おそらく、『入門』の著者らは「定義」に深い意味を込めたわけではなく、「説明」とほぼ同義で使ったのだろうし、その証拠がp.18などの言い換えでしょう。ですが、「定義」ということばが特にトランスやノンバイナリーに対して暴力的に使われている現状で「定義」と「説明」を使い分けていくことは有益ですし、そうでないにしても、「定義」するという行為について、もう少し意識してほしかったところです。
語ることについて
語りうることの限界
「はじめに」には、『トランスジェンダー入門』が「客観的な視点からトランスジェンダーの状況を論じた本」(4)であると書かれています。ここで著者らがしようとしたことを否定するつもりはありませんし、直前に言及されているエッセイなどと対比させる形で出されている「客観的な視点」というのが何を意図しているのかも、伝わっています。
しかし、ここまでにも繰り返してきた通り、私たちの知ることや語ることは、用いる表現ひとつにしても、私たちの経験や関心、社会経済的立場などと不可分です。限られた紙面でトランスジェンダーの状況を論じるとき、何を書き何を書かないかには常に「主観」が入り込んできます。いつの誰の状況を書き誰の状況を書かないかは、「客観」だけでは決められません。
この文章では、冒頭に自分の立ち位置を明記し、そのような立場の「一人」として書いていると書きました。それは『トランスジェンダー入門』を読み、これについて語るとき、これはすなわちトランスジェンダーについて語ることでもあるのですが、自分がトランスジェンダーやノンバイナリー・コミュニティとどうかかわってきたかが、知りうることや語りうることを縛り、制限するからです。繰り返しているように、トランスジェンダーやノンバイナリーには、様々な人たちが含まれます。たとえ「当事者」であるとしても、このコミュニティのごく一部としか、私たちは接することはできません。
トランス当事者の多くの人は、これまでも著者らやお二人の書かれたことや話されたことと、何かしらの形で接したことがあると思いますが、そうでない読者にとっては、なにもわからないまま『トランスジェンダー入門』の本文は進んでいきます。だから、同じように、著者らがどのようにトランス・コミュニティと関わってきたのかを、ただこれまでトランスジェンダーについて考えたり書いたりしてきた(5)という以上のことを、きちんと明示し、この本がそれらに縛られていることを明記してほしかったです。「ただの二人の当事者」であることを、きちんと明記してほしかったです。そうすることで、「全体像」や「定義」という言葉の問題を、多少は緩和できたように思います。
排除の種となる差異
本来であれば、上述のように、ふたりの人が、ましてや一冊の本に、すべての理解をまとめることなどできないのだから、異なる立場から出た様々な考えのすべてに言及されていないのは当然のことです。著者らが自分よりトランスについて知っているのは事実だとは思います。しかし、お二人があくまでお二人の立場から語っているということが共有されないまま、「全体像がわかる」とされた「入門」という枠組みの中で一定の権威を与えられた著者らは、繰り返し注釈なしの「トランスジェンダーの人たちは」という主語で、本来は決して画一的ではない集団の「現状」を語り、「トランスジェンダー」の「全体」をつくっていきます。このことは、同時に、小さな意見や理解の差異すらもが、当事者らを「トランスジェンダー」や「ノンバイナリー」から、その規定された「全体」から、排除してしまうのです。
自分も、いくつか気になる点がありました。別にどうでもいいと言えばいいのですが、『トランスジェンダー入門』が描く「全体像」や「トランスジェンダー」から、少なくとも自分の考えがかなりあぶれてしまっていることを指摘するため、記事末尾に羅列しました。ここで書いたことをさしたる問題でないと考える方もいるでしょうし、ここに書かれていないことを問題視するする方もいると思います。あるいは、ここに書いた指摘自体が問題含みだとする人たちもいるでしょう。本来はそれでいいはずです。そこからより良い語り方を、さらには社会を、作っていくことが目的なのですから。ですが、そのためには、やはりこれらの記述が「規定」するものでも、「全体」でもないことを認めなければなりません。
「当事者」として語るということ(&まとめ)
女性の経験が男性から語られてきたように、Blackやピープル・オブ・カラーの経験が白人の立場から語られてきたように、これまで、トランスジェンダーやノンバイナリーの経験は、語られることがあっても、シスジェンダーの立場からばかり語られてきました(p.123も参照)。そのなかで、不十分で誤解を招くようなことばや説明が広まったり、問題にしたいことでないことが「問題」にされたり、挙句にはだれがそうであるのかを勝手に規定されたりしてきました。だからこそ、トランスやノンバイナリー当事者が、「当事者の一人」として語ることは大切ですし、そういった語りが増えてほしいとは強く思います。
ですが、私たちはトランスジェンダー/ノンバイナリーでもありながらほかの無数の属性を持つ存在です。それらが様々な人たちと様々な社会関係の中で緊張しあいながら、様々な被害や加害を経験しているのだから、私が語れるのは、私の経験だけです。例えば入管に閉じ込められていたあるトランスジェンダーの女性は、「同じトランスジェンダー」であっても、私と共通する抑圧も、全く異なる抑圧も受けているでしょう。
当事者として語るということは、多様なトランスやノンバイナリー当事者の経験を代弁することではありませんし、そうであってはなりません。それでは、結局これまで繰り返されてきた、他者に経験を語られるのと同じことです。そうではなく、多様なトランスジェンダーやノンバイナリー当事者の存在と多様な経験を前提として、自分の立場から可能な限り誠実に当事者の「一人」として語り、そうやって積み重ねられた「語り」同士をつなげていく必要があるのです。
著者のお二人のことは、本当に尊敬していますし、大好きです。ですが、自分にとっては、著者らの「解説」が更新と補足のされるべき不十分なものであることが明記されないまま、一部の当事者らを排除しながらトランスジェンダーやノンバイナリーの「全体像」を語る『トランスジェンダー入門』は、「他者に規定され代弁される」という点においては、これまでシスジェンダーにそうされていたのと、正直あまり違いがありません。そして、この問題が著者らに共有されているように思われる個所がある(例えばpp.114, 183-184や、『すばる』2023年8月号の高井ゆと里さんの「トランスジェンダーの定義を知りたいあなたへ」)からこそ、一層にもどかしく思うのです。
さいごに
ここでこれを書くのは、この本の必要性や有用性を否定する目的ではありません。「はじめに」にもある通り、これまで「性的マイノリティ」を扱ってきた一般向けの日本語圏の本では、トランスジェンダーやノンバイナリーが「おまけ」といった扱いを受けがちであったことはたしかに事実であると思います。当事者でない人にもアクセスしやすい正確な情報が不足しているのも、事実だと思います(一応これを解消したい目的もあり、LGBTQ+ wikiを作るお手伝いをしたのですが、現時点ではその目的のためには情報が不足しているのも事実です)。また、フェイ(2022[原書は2021])の『トランスジェンダー問題』が、高井さんが加えてくださった様々な註があってもなお、「日本の読者たちにとって難しすぎる」(213)という懸念についても理解できます。トランスジェンダーを含む非シスジェンダーへの差別や暴力は日本語圏内外を問わず一層ひどい状況にあり、情報不足や誤解、シスジェンダーの立場から書かれた説明や「定義」がそれを助長してしまっていることは少なくとも事実です。そのようななかで、当事者らが書いたこのような本の存在は必要ですし、その意義を否定するつもりはありません。自分自身も、人に勧めることもあると思います。
また、著者のお二人へ個人攻撃をすることも目的ではありません。お二人の本はほぼすべて読ませていただいており、SNSや各種イベント、講演などを通じても、これまで多く学ばせていただいています。高井さんの書かれた学術的な論文からも多く勉強させていただいています。これらのことは、この先も変わることはありません。
おまけ―追加で気になった点
第一章
- これまで問題視してきた「定義」のほかに、「性別」についてや「身体の性」の問題点について、自分は違う理解をしています。
第二章
- 「精神的な(性別)移行」という概念も、少なくともこの説明だけではクエスチョニングやクィア、Aジェンダーの一部などを排除してしまいます。
- 「社会的な性別移行」についても、人によっては、あるいは社会経済状況によっては、しなかったりできなかったりする場合があることも、十分書かれていないように思います。
- 「男性ホルモン」「女性ホルモン」という言葉の使用には賛同できませんし、アンドロゲン製剤の使用や「胸オペ」、陰茎形成手術などを「男性化」として説明することの問題がずいぶん先のp.74まで言及がないことも気になります。
- 46ページでは「異性愛」「同性愛」について触れられていますが、一部のノンバイナリーの関係はこれらの語でうまく表せないことについて、この段階で少し書いてほしかったです(p.177に言及はありますが)。
第三章
- 78ページからは「家族」という項目がありますが、「家」に含まれるニュアンスを避けて、「かぞく」とひらがなでかくことを自分は選んでいます。
- 「教育からの排除」(82)ではバイナリーでないトランスジェンダーについてにも言及する必要があったと思います(ずいぶん先のpp.208-210で言及されています)。
- 86ページでも二次性徴後の身体的特徴に対する違和をトランスの全員が経験するような書き方で、問題に思います。
- 「LGBとTは別もの」について、同じような理由の同じような差別を受けるとしながらも、いったん「別もの」であることを受け入れているp.89については、複雑に絡み合った運動の歴史やコミュニティのことも説明されておらず(p.176では多少の言及がありますが)、トランス差別者から論点にされてしまっている現状を考えればこのままでは「なぜLGBTなのか」の説明としては不十分であると思います。
- 註28(本文p.111)では、肯定的なトランス表象の例としてドラマ『トランスペアレント』があげられていますが、主役を務めたTamborの性的加害疑惑の問題を鑑みれば、例として出すことにあまり賛同できません(自分であれば『スティーブン・ユニバース』を挙げたと思います)。
- 自死について、「とても多くのトランスジェンダーの人がトランスであることを大きな理由に自死している」(119)という記述がありますが、理由を「トランスであること」とするのは誤解を招くと思います。「トランスであることによって経験させられる困難や暴力を理由に」などとすれば、簡単に解決できる問題に思います。
- 「差別」の中には、カミングアウトをしたいのにできないこともあるので、そこにも踏み込んでほしかったです。今カムアウトできずに苦しみながら生活している方への勇気にもなったと思います。また、非当事者も多く読む想定なら、アウティングやマイクロアグレッションについてももう少し言及してほしかったです(前者についてはp.97に言及はありますが、具体的にどのような行為があるかの説明はもっと必要かと思いました)。
第五章
- 166ページにおける「風呂」の話についても、うんざりする話題なのは承知なうえで、言及するのであれば、もう少しきちんとしないといけないように思います。そもそもなぜ「同性」同士であれば裸を見せ合うことに問題がないとされているのかから、考えるべきですよね。
- 168ページにおける議論は、各トランス当事者が、固定された、一つのみの性別を持っていることを前提としており、少し疑問です。また、結局のところ、「政府が認めた性別」以外として登録できないことの問題もあります。175ページから(およびpp.207-208)、戸籍制度の問題は指摘されていますが、そもそもなぜ政府が性別を登録する必要があるのかという点から考えるべきに思います。
第六章
- 192ページで「第二波フェミニズム」という表現が出てきますが、特にBlackの女性たちが周縁化されていたというこの文脈の中で、注釈なく「波」の概念を用いることには賛同できません。
[追記]2023/07/22
「トランスジェンダーの定義を知りたいあなたへ」について
記事を公開してから一週間ほど経ち、様々なコメント等をいただきました。問題にしたいことはおおむね伝わっている印象で、うれしいです。本屋lighthouseさんの「『トランスジェンダー入門』で「入門」する多くの“私”へ向けて」でも言及していただきました、ありがとうございます。ほかにも言及してくださっている方がいたら、ぜひリンク等させてください。
著者のおひとりである高井ゆと里さんによる「トランスジェンダーの定義を知りたいあなたへ」(『すばる』2023年8月号, 集英社)は、7/15にこの記事を書く前に確認しており、記事内でも少しだけ言及しましたが、元の記事で考えたかったのは、あくまで『トランスジェンダー入門』という新書の枠組みの中でなされている議論や、それを通じて構築されるさまざまな立場の効果の話でした。この目的のため、そして『入門』の本文内で「あなたへ」は言及されていなかったことを受けて(もちろん執筆時期の問題があるので仕方のないことですが)、考察の対象にはしませんでした。しかし、もう少しだけ、ここに「あなたへ」について追記しようと思います。
「(閉じた)定義」をすること/されることを拒絶する主張自体は、特にクィアの文脈では決して珍しくないことですが、「定義」と「説明」の違いを強調し、アイデンティティや社会集団について「定義」することを拒絶しながら各々の立場からの「説明」を繋げ合い続けることを大切にする考えを、少なくともこの表現の形で自分が知ったのは、anarchist_nekoちゃんを通してでした。この考えは彼人のTwitter (古い投稿は消されていますが)を含めさまざまな場所で頻繁に繰り返されており、今でも公にアクセスできるものとしては「2022年8月のわたしのアナキズム」宣言、「女性」の「定義」、バグ宣言などがあります。このことを受けて、7/15に書いた記事ではanarchist_nekoちゃんを中心に引用しました。
ここで提示した考えと似た主張は、高井さんの記事「トランスジェンダーの定義を知りたいあなたへ」でもされています。237ページには「トランスジェンダーという言葉に与えられるただ一つの定義など、わたしは知らない。だからわたしは、色々な『説明』を与える。…そうしてわたしは『定義』を与えることを拒む」とありますし、マッキノンを引用しながら展開されている「定義の権力」の議論は、少し方向は違うものの、自分が元の記事で(言語行為論的なものを意識しながら)書いたことと通じるものです。
ただ、ふたたび焦点を『入門』に戻すなら、この話題(あるいは「あなたへ」への言及)が全く本文中になかったことは変わりません。著者らの一人が「『定義』を与えることを拒む」(「あなたへ」 237)と別の場所で書いていたとしても、事実として、『入門』は定義を与えてきています。その行為の背景にある意図が何であろうと、「入門」≒「解説書」や「全体像がわかる」というフレームワークのなかで、著者らが「当事者の『二人』」である(でしかない)というスタンドポイントを確立させないまま注釈もなく「定義」や「トランスは〜」を語るのならば、トランスを(あるいはそうでない人を)「規定」してしまう効果は出てきてしまいます。
わかりやすい「定義」や「全体像」を求める人がいるのも知っています。資本主義体制のなかでは、読書に限られた時間しかあてられない人も多く、そういう方に、まず手に取ってもらい考え始めるきっかけにしてもらう本が必要であることも分かります。あるいは、複雑すぎる世界が牙をむいてきているとき、世界を、そしてその中にいるじぶんたちを単純化してくれることばは、たとえそれが束の間の効果であっても、心を安らかにしてくれたり、団結のための旗印になる時もあります。
わたしたちも、わたしたちらしさも、社会も、社会的交流も、自然も、全て単純なかたちで描くことはできない。だが、ぐちゃぐちゃとした世界が自分を殺しにかかっているとき、繰り返される抑圧と搾取と暴力を理解できないのは怖い。だから、自分の経験を抽象化し、単純でわかりやすく絶対的な図形の繰り返しとして描こうとする。そうやってわたしたちは「世界」を説明し、理解したつもりになる。
「2022年8月のわたしのアナキズム」宣言
だけれども、不注意にそれに乗ってしまうのは、指摘した通り、「結局これまで繰り返されてきた、他者に経験を語られるのと同じことです」。「あなたへ」を見る限り、この問題意識は少なくとも高井さんとは共有できているのに、なぜ『入門』はこのことに十分な注意が払われぬまま出版されてしまったのですか。
ちょうど元の記事を公開した翌日、高井さんはTwitterで次のように書かれています:
自分も合わせて読まれることをお勧めします。ただ、繰り返しになりますが、「トランスジェンダーの定義を知りたいあなたへ」は『トランスジェンダー入門』の一部ではありませんし、『入門』内で言及されているわけでもありません。むしろ、「あなたへ」の主張に賛同するのならば、これまで指摘してきた『入門』の問題は一層浮き彫りになっていくように思います。
元記事でも繰り返してきた批判は、例えばタイトルを改め、帯や袖の文句を直し、「はじめに」を充実させ、「定義」ではなく「説明」という表現に統一し、「トランスは」ではなく「トランスの一部は〜」と代わりに書けば避けられたことです。いや、「あなたへ」で展開されている議論を注釈に付け加えるだけでも十分であったかもしれません。タイトル以外については次の刷で修正することだってそれほど困難でもないと思います。でも、だから余計に、なんで初めから避け(られ)なかったのか疑問に思い続けています。
『トランスジェンダー入門』の語られ方について
これまで、『入門』にばかり批判を向けてきましたが、この本の語られ方についても最後に付け加えさせてください。問題があると指摘はしたうえで、確かに『トランスジェンダー入門』は「良い本」であるとは思います。元記事には「自分自身も、人に勧めることもあると思います」と書きましたが、その後、実際に数人に勧めました(自分の記事へのリンクを送りつつ)。『入門』の帯には「最初に知ってほしいこと。」と書かれており、その通り、自分が自分の立場より「最初に知ってほしい」と思うこともかなり書いているように思います。
しかし、「最初に知る『べき』こと」「最初に読む『べき』本」として、この本を語っている方の多いことが気になっています。「最初に知るべきこと」を決めれば決めるほど、「後回しにすべきこと」がうまれてしまいます。「最初に読むべき本」と断定するほど、「後回しにすべき本」ができてしまいます。本当にそれでいいのですか?それは、「人類の語り」から「女性の語り」を周縁化したり、「女性の語り」から「トランス女性の語り」を周縁化したりしてきたのと、全く同じことをしていませんか?『トランスジェンダー入門』は「良い本」ですが、あくまで二人の当事者が書いた一冊の本にすぎません。どんなに素晴らしい本でも、書いた人ら自身が有限の時間の中で経験したことと、それに基づいて著者ら(とせいぜいあと数人)が解釈した他者の経験しか、一冊の本に入れることはできません。自分がこれまでずっと強調してきた通り、『入門』に書かれていない経験も問題も差別の在り方も、いっぱいありますよね。それを忘れずに語り続けていくことを、「定義」や「中心」を拒絶しながら、各々の立場より「説明」を繋ぎ続けることを、大切にしてください。
そして、ここまで読んだ方は、たとえその意図がなんであれ、だれが「トランスジェンダー」や「LGBTQ+」に含まれない(べき)かについて話すことに、もう少し慎重になってください。私は、ほとんどの場面でなされてきたその会話に対して、これまで17000字を使って繰り返してきたのとまったく同じような批判をします。